【倉地紀子のデジタル映像最前線レポート】(1)映画「天使と悪魔」(09年公開、配給:ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント 全国にて大ヒット公開中)

2009.5.28 UP

■流体シミュレーションを駆使した新たな爆発表現
インタビュー <<英ダブルネガティブ社 VFXスーパーバイザー ライアン・クック氏>><<英ダブルネガティブ社 VFXプロデューサー フェイ・マコンキー氏>>

 『ダ・ヴィンチ・コード』(06年)の続編にあたる映画『天使と悪魔』が、5月15日に世界同時公開した。今回は、ストーリーとともに、前作を上回る迫力ある映像が大きな魅力となっている。本作品は、決してVFXが目立つ作品ではないが、魅力的なストーリー展開を映像化するために、高度な技術が駆使されている。とりわけ、ストーリーの要となるシーンで、高度なCG技術を導入したVFXが演出面で効果を発揮している。メインとなるVFXシーン制作を担当した、英ダブルネガティブ社のVFXスーパーバイザーのライアン・クック氏(上から2番目の写真左側)、VFXプロデューサーのフェイ・マコンキー氏(上から2番目の写真右側)に今回の新たな試みなどについて聞いた。(倉地紀子)

■ダブルネガティブ社とは
 『天使と悪魔』のVFXの話題に入る前に、ダブルネガティブ社に関して少し触れておきたい。ダブルネガティブ社は2000年初め、ロンドンのムービング・ピクチャー・カンパニーという老舗映像プロダクションから独立。“ロンドンに映画プロジェクトだけで成り立つ独立系の映像プロダクション”を目指して設立したが、設立後数年を経てみごとにその志を実現した。
 現在では映画のVFXだけで会社の経営を成り立たせており、その作品の顔ぶれも錚々たるものだ。『バットマン・ビギンズ』や『ダークナイト』といったバットマン・シリーズ、4作目以降のパリーポッター・シリーズ、『ヘルボーイ:ゴールデンアーミー』、『007/慰めの報酬』など、近年のハリウッド映画の大作でもリードVFXベンダーを勤めている。
 ダブルネガティブは、もはやハリウッド映画には欠かせない存在となりつつある。
 同社の成功の秘訣として、3つの要素が挙げられる。
 一つ目はプロデューサー陣の充実ぶり。ハリウッドのVFXベンダーと伍して戦うために非常に優れた人材を集結させている。
 二つ目は独自性の強い高度な技術力。ハリウッドのVFXプロダクションの技術を真似るのではなく、それをしのぐ高度で独自性の高い技術を次々と考案し蓄積していっている。
 三つ目は国際性の豊かさ。イギリス国内だけでなく、ヨーロッパやアメリカからも人材が集まってきている。技術陣にはドイツから渡ってきた優秀な人材が多い。ハリウッドのVFXプロダクションで経験を積んだのちにヨーロッパに戻ってきた人材も、そこで学んだノウハウをうまく反映させているようだ。英国のこれまでの映像プロダクションとは一味違ったこれらの特徴を武器に、その成長は止まることを知らない勢いだ。

■ローマの情景をCGで表現
 本作品の大きな魅力の一つは、観客が作品を通してローマを旅しているような気分を味わうことができるところにある。映画の中には、ローマの実際の風景があるが、俳優が登場するシーンはすべて米国・ロサンゼルスで撮影が行われたものだ。また、俳優を取り囲むローマの建造物などはすべてCGで制作している。
 ダブルネガティブ社は、建造物などを含めた情景をCGで表現することを得意としており、自社で専用の技術開発もしている。映画『バットマン・ビギンズ』(05年)のVFX制作で同社が開発した「STIG」と呼ばれるHDRパノラマ技術は、その代表的なものだ。これは、階層構造を持ったパノラマ表示のための技術で、建造物を含めた情景を高精細なデータとして保持し、CG制作の際のイメージベースト・ライティング(IBL)に用いる。

 IBLを用いて正確にレンダリングをするためには、環境マップとして全天周に張り付けられたHDR画像を光源とし、モンテカルロ・レイトレーシング(間接光の影響まで考慮したレイトレーシング)を用いるが、計算負荷が非常に重いため、通常はレイトレーシングを使わずに、HDR環境マップをイメージプレーン上に投射するという方法がとられる。
 しかし、この方法では、レイが途中で遮られたり混ざり合うことを考慮できないため、最近では、「アンビンエント・オクルージョン・マップ」と呼ばれるレイが、環境に達するまでにどれだけ妨げられるかを記録する手法を加えている。

■レイトレーシングに挑戦
 『天使と悪魔』では、ローマのシーンで「荘厳な光」を表現することがテーマとなっていたため、あえてレイトレーシングを使っている。まず、HDR環境マップから点光源を発生させ、さらにライティング調整用の点光源も加えた。その結果、点光源が何百という数になってしまった。
 光源の数が多くなるにつれて増大する計算付加を低減するため、光源をグループ化し、一つの点光源で複数の光源と同様の効果を与えるようなプログラムを開発した。
 これは一般的にクラスター化と呼ばれる。点光源の数を最小限に絞り込むことで、レイトレーシングによるレンダリングが可能になった。
 ただし、このレイトレーシングは、間接光の影響までは考慮できていない。間接光の影響を考慮するため、レンダーマンに新たに加えたポイントクラウドという機能を用いた。ポイントクラウドには、法線方向、向き、面積、蓄えられている光の強さなどの情報がある。無数の点光源をポイントクラウドに変換し、ポイントクラウドからの影響をすべて足し合わせることで、間接光がレンダリング点に及ぼす影響を算出できる。
 従来の手法よりさらに物理的に正確な、レイトレーシングやポイントクラウドといった手法を用いたことは、バチカン宮殿の内部の神々しい雰囲気を作り出す上で非常に効果的だった。

■群集とエフェクトのインタラクション
 ダブルネガティブ社は、バチカン宮殿前の広場に登場する群衆を表現するため、クラウド・パイプラインを新たに構築した。
 同社はこれまで、群衆の表現にはインハウスのシステムを用いてきた。このシステムでは、群れ全体の動きを無数のパーティクルの動きとして算出。群れの個々のキャラクターに対し、モーション・キャプチャーや手付けのアニメーションを割り当てることができた。
 今回は、爆発などのエフェクトの影響を群衆に加える必要があったことから、フーディーニのプラグインを用いて構築したシステムに切り替えている。
 まず、フーディーニのパーティクル・シミュレーション機能を用いて群れ全体の動きを作成。爆発などのエフェクトが群れに及ぼす影響を算出し、その結果をベクトル場として記憶する。
 今回新たな機能として、エフェクトの影響を表すベクトル場にあわせ、キャラクターのアニメーションをアップデートしている。これにより、道を歩いていたキャラクターが、爆風の影響を受け、よろめくなど、状況の変化にあわせて演技(アニメーション)を変えることができる。
 ポストプロダクションの段階で演技をコントロールできるようにしたことで、表現の自由度や作業の効率を高めることができた。

■流体シミュレーションで爆発を表現
 『天使と悪魔』の最大の山場であり、またVFXの見せ場ともいえるのが、クライマックスに登場する爆発だ。
 ダブルネガティブ社にとって、この最後のシーンの爆発をどう視覚化するかが大きなテーマだった。
 今回の爆発は、過去の数々の映画に登場したものとはまったく別物だ。スケールがとてつもなく大きく、人間の力を超越したものを感じさせる表現になっている。
 監督やアートディレクターから参考用に送られてきた映像や画像の素材は、原子爆弾や星雲の爆発など、CGで表現するには困難なものばかりだったそうだ。数多くの爆発の表現をこなしてきたダブルネガティブ社のスタッフにとっても大きなチャレンジだったようだ。
 最終的に、この爆発の表現には流体シミュレーションを用いている。流体シミュレーションによる爆発は、これまでの映画のVFXの中でも例がない。
 従来、CG流体シミュレーションで用いられてきたソルバー(流体の運動方程式を解くためのソフトウエア)は、いずれも質量保存の法則が成り立つという前提のもとで構築されていた。このソルバーでは、爆発のように質量保存が成り立たず、外に向かってすさまじい勢いで広がっていく流体の動きを表現することはできない。
 今回ダブルネガティブ社は、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学と共同で、新たにソルバーを開発した。
 新しいソルバー「Squirt」は、FLIP(Fluid-Implicit-Particle)という手法をベースにしたCG流体シミュレーションだ。質量保存が成り立たない場合もうまく扱えることから、流体シミュレーションで爆発表現を可能にした。
 この爆発シーンは、パーティクルの密度によって表現の細かさが決まる。パーティクルを分割する箱形のグリッド(ボクセルグリッド)ごとに再起計算を行い、ボクセルグリッド単位で算出した流体ベクトルに沿って、多数のパーティクルを飛ばす。このボクセルグリッドの分割を粗くすることで、爆発の細部を表現しながらも、計算効率を高めることができた。
 ダブルネガティブはまた、パーティクルを光源に変換するためのプログラムを作成し、これらの光源によってシーンの環境のライティングを行っている。これによって、爆発が放射した光が周りの環境を照らしだす様子もリアルに描き出している。

 『天使と悪魔』は決してVFXヘビーと思わせる映画であってはならなかった。しかし、魅力的なストーリー展開を最大限に効果的に映像化するために、その裏では、映画の画面からは想像もつかない高度な技術が駆使されている点は非常に興味深い。今日では「VFXは平衡状態に達した」といわれることも多い。だが、人間の目が欲するリアリズムは非常に多岐に渡っており、そこには上限というものはないといえるほどだ。人間の目を真に満足させるための技術的チャレンジは、まだまだ続きそうだ。

<写真説明>

(上から3番目)
 映画の中でトム・ハンクスが走り回っているローマの名所は実はすべてCGで復元されている。宮殿や教会の荘厳な雰囲気をつくりだすために、今回はリアルなライティングやレンダリングのための新技術も開発・実装された。

(上から4番目)
 映画のクライマックスともいえる長い長い爆破シーンは、すべて最新の流体シミュレーション技術を用いて作成された。「原子爆弾」を思わせる爆破では"光”の表現も重要。流体シミュレーションで生成されたパーティクルを光源として周りの環境がライティングされた。

(上から5番目)
 爆破シーンでは、現実の世界では起こりえない被災をリアルに描き出すことも非常に重要だった。Houdini上で生成したベクトル場によって群集のパフォーマンス・データーに変化を加え、これを群れのアルゴリズムを結びつけることによって、非常に真実味のある被災の表現が可能となった。

(おわり)

#interbee2019

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